Air diary 67『R+気流部 』PART 3
2011/09/10
「R+気流部プロジェクト」が実際に動き出します。詳細は9月の下旬には発表出来ると思います。
現在その為に大阪府下の緑地や都市公園を視察中です。(写真上は大泉緑地大芝生広場と廻りに広がる「百年の森」と位置づけられた、都市林。)
浜寺公園、大泉、久宝寺、鶴見、服部、深北、山田池などなどを今迄に廻っています。
その中で「気持ちいい!!」「ここは何??」といった感想に大まかに分かれていきます。
大泉や鶴見、深北などの広いオープンスペースを臨んだときはさすがに気持ちがいいです。ゴルフ禁止といった立て看板があるくらいの面積が確保されているので、ゴルファーっていつもこういう気分なのかな?とも。
でも、都市公園にはたいがい「何か」があります。「何か」の意味合いを付加され、何も無いオープンスペース=ニュートラルな都市の余白=パブリックスペース=緑しか無いという分けには行きません。時代や地域の特色が反映された、機能や、価値が、ニュートラルな場を囲い込んでいます。又、その意味や価値が作られた時代を反映しているため、その経緯が分からないと「ここは何?」という感想になっていきます。
最近のニュースで東京都が豊島園を買収し、災害の時の一時帰宅困難者を受け入れる、防災の拠点作りの構想が報じられています。休日のレクリエーションが重要視され、テニスコートや遊戯施設が作られた、高度成長の構想とは異なる、現代の「防災」意識の高まりによって、又公園は姿、形は変えずとも、向けられる意味合いは変わっていっています。
例えば浜寺公園。
前の海が埋め立てによって臨めなくなり、松林の風情も感じ得なくなり、「交通公園」という、1960〜70年代の車社会の到来により児童の安全教育施設が付帯されている事など、「昔」を知らなければ、懐かしささえ当然の事ながら感じず、一旦意味合いを付けられた「公園」が何も無い「公園」に戻りたくても戻れないおかしな状況=場所と映ります。
そういう意味では眼に見える施設やレクリエーション機能が「河の氾濫の際の治水用地」のためあまり作れない状況の深北緑地は、ある意味で救われている感じです。
緑や樹々も都市の中では人の管理やコントロールの元に入ります。それを「自然」という括りで捉えていいのか分かりませんが、里山などとの人との関わりとは全く異なる、人と自然の関係があります。「自然」に人が意味を与える事の矛盾を、都市機能を維持する為には蓋をしなければいけないのかも知れません。
このように、都市公園、緑地、一括りには出来ない、地域性や時代の変遷があります。「公園」という便利な括り方をしなければ、多種多様なパブリックスペースの存在として、本来のニュートラルな場を感じる事が出来るのかもしれません。貼付けられた、古いままの「意味」を取払い、言葉や意味、機能ではない、「場」や「地域」を感じ得る為にも、アートが出来る事は少なくないと。そして、広大なオープンスペースがアートを展開しやすい場であるのだけれど、そこばかりを優先していてはオープンスペース=ニュートラルといった安易な概念に囚われてしまうことにもなります。ニュートラルな場であるからこそ、様々な付帯を着せ変えられている訳でもあります。
活動のスタンスとしてはやはり、「公園」に入って行くというのではなく、その地域の誰もが関われる場所にアートを仕掛けて行く、そういう心積もりでR+気流部は、公園に浅く、地に深く、気は軽く臨んで行こうと思います!!
写真下はR+気流部の浜寺おそと会議中。奥のベンチに腰掛ける老人をも、気流部的おそと会議である以上、同じ場の空気を呼吸して、参加している事になります☆
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R+気流部とは? R指定=緑地限定気流部名称。
場から立ち上がる制度に対して俯瞰する視点を持ち、人、都市、自然、アートの新たな関係性の再構築を目指す活動と、その展開の場である[都市公園]の可能性を参加型アートイベントやワークショップにより探る活動名称。
又、映像作品などの「R指定」を引用し、個の表現の公共性の中での制約や制限といった「個と制度」をテーマに、相反しない「個と集合体」としてのアートプロジェクトを目論む。